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貞山運河の北端は、旧北上川との接点にある石井閘門(いしいこうもん)。石巻(いしのまき)市(仙台から約50km、仙石線(せんせきせん)電車で約1時間10分)にあります。

明治15年に開削された北上運河は、ここから13.9km南下して鳴瀬川・吉田川河口の野蒜築港に至ります。みどころは、その両端の石井閘門と野蒜築港になります。


重要文化財:石井閘門

石井閘門は宮城県石巻市水押3丁目6番地内の旧北上川右岸8.1qにあり、広義の貞山運河の最北に位置する北上運河と接続する閘門で、国土交通省東北地方整備局北上川下流河川事務所涌谷出張所が管理しています。平成14年5月23日、文部科学大臣より重要文化財の指定を受けました。

当時の北上川と運河間に生じた水位差(北上運河の水位は旧北上川と比較し約1m低い)を解消する船舶通航施設、また洪水防御施設として、明治11年(1878)10月8日に着工されて同13年(1880)7月に完成したものです。

石井閘門(撮影者:宮崎正俊)

ここからはじまる北上運河は明治政府による野蒜築港計画の関連工事として整備されたもので、明治11年6月、現石巻市水押3丁目地内と東松島市浜市地内間の12.8qで開削に着手し、同13(1880)年12月に完成しました。運河の幅員は平均約25m、平水時の水深1.6mです。石巻市街を斜めに横断し、東松島市(旧矢本町)の航空自衛隊松島基地と太平洋の間を流れ、野蒜築港跡に至ります。


野蒜築港

 今では信じられないことですが、明治政府の殖産興業・華士族授産政策の下に、野蒜に日本最初の西洋式港湾を建設するという国家プロジェクトがありました。発案推進者は大久保利通で、適地選定と設計にはオランダ人長工師ファンドールンがあたり、明治11(1878)年に着工します。鳴瀬川河口の左岸に面積10万5000坪の市街地を造成し、河口入口に東西二本の突堤を築造しました。土砂対策として開削した新鳴瀬川にはレンガの橋台を持つ三本の橋を架けます。岸辺に並び立つこのレンガと、当時の公園跡(紀功の碑と石のローラー)、測候所跡が見どころです。

 明治の初頭、10年代(横浜築港:同22年)にオランダ人が関わった築港として、福井県三国港(同11年)、熊本県三角港(同17年)とともに「明治三大築港計画」と呼ばれます。

野蒜築港空撮写真(国土交通省東北地方整備局北上川下流河川事務所)

縦に流れている河川が鳴瀬川で、河口部に突堤跡が見える。少し上流の中州で左側から吉田川が合流してくる。一番下に移っている横の水路が北上運河で、鳴瀬川の本流、分流によって三角形の三辺を構成、この部分が市街地になる予定で、一等郵便局や測候所まで開設された。

明治15年10月には、鳴瀬川河口に東突堤と西突堤が完成し運用が開始されます。明治17年2月に東名運河が完成し、北上川から阿武隈川までの水路が完成しました。もしこのまま使われていたら、日本の物流地図はずいぶんと違っていたでしょう。

上の橋レンガ橋台 1.2kmの水路に「上の橋・中の橋・下の橋」のレンガ橋台

しかし、同年9月の台風で内港への入り口である突堤が被害を受け、散乱した用材で港口が埋まり船の往来ができなくなりました。調査の結果、外港予定地は風波が高く荷役に不便であること、漂砂堆積が著しく、水深維持が困難であること、対応策としての防波堤建設には長年月と莫大な費用を要する上、成否に確証がないことなどが判明し、第二期工事に未着手のまま、明治18(1885)年、明治政府は野蒜築港事業を放棄せざるを得ませんでした。気象台の測候所は野蒜から石巻に移転しました。港湾の機能は昭和8年に第一期竣工の塩釜港を経て、昭和46年に開港した仙台塩釜港が担うことになります。そして、市街地は航空自衛隊松島基地の騒音問題で集団移転し完全に無人地帯となりました。

これは、平成16(2004)3月12日、旧鳴瀬町浜市の市街地跡で移転作業中の安倍信悦氏(野蒜築港ファンクラブ会員)の所有地から発見されたものです。同年9月末から11月まで合同発掘調査を行い、切石劣化防止のため埋め戻しています。接続されていた土管は復元され、野蒜築港資料室に展示しています。

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