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塩田と運河と築港(ちっこう=港の建設)にどんな関係があるのでしょう?野蒜って、どう読むの?

1.野蒜:「のびる」と読みます。宮城県の中央部を流れる鳴瀬川が太平洋に注ぐ河口部の地名で、平成17年4月からは東松島市野蒜になりました。仙台市の北東、約30kmの距離にあります。

2.野蒜築港:明治政府の殖産興業・華士族授産政策の下に東北開発の最重要拠点として計画され直轄で行われた日本最初の西洋式港湾建設事業。詳細→野蒜築港資料室

3.なぜ塩田?:北上川と阿武隈川を結ぶ、この日本一長い運河群(北上運河・東名運河・貞山運河)は野蒜港への水の道でした。亀岡塩田増墾碑は、東名運河(全長3.2km)を三等分したときに、鳴瀬川から松島湾方向へ三分の二くらい進んだ右岸、県道から少し入った民地にひっそりと建っています。高さ2.6m、幅1.23mの井内石製です。野蒜築港に伴って東名運河が開削され、それによって農地を失った地域の住民が、篤志者の助成で苦心の末塩田を開墾した経緯が述べられています。築港や運河の影響をうかがい知る貴重な史料です。原文と読み下し文を掲載します。原文は、もちろん右上から始まる縦書きですが、スミマセン、左上から横に読んで下さい。紙面上、1段に2列分掲載しています。極力原文の文字を捜しましたが、変換できない文字もありますことをご容赦ください。

松島灣東盡處是為龜岡濱属桃生郡野蒜村戸數四十有余地元鹹鹵少田村民多以漁塩為業?治辛巳野蒜築港之事 興首鑿運河亀岡為之又失耕田過半村民大憂之於是高橋一郎雫石藤治齋藤善右衛門齋藤又吉胥謀欲増墾洲崎塩 田以濟之然困無其費會濱市人齋藤廉吾聞之招四人曰聞子等欲益開塩田利村民其事甚好余且薄息放銀以襄子等 之志四人感喜従事剏工於?治丁亥三月告竣於戌子五月為日大凡五百日役夫總三萬人得田十町有奇闔郷被其利 今茲己丑八月一郎等四人来仙臺叩余門敍墾田之顛末乞得余文以不朽齋藤氏之恵余識廉吾有年廉吾平素自奉倹 朴不類富豪然至濟物興利之事乃能如此其義洵可嘉也於是不辭而文之系以銘曰 爰疆爰埋 於海之? 益開鹽田 十町有奇 一郷永終 茲享福祉 孰其為之 於戯齋氏     ?治二十二年十月   木村敏撰

松島湾東に尽きるところ、是亀岡浜なり。桃生郡野蒜村に属し戸数四十有余、地、元、鹹鹵(カンロ)にして田少なし、村民多く漁塩を以って業と為す。明治辛巳(シンシ)、野蒜築港の事興り、首(ハジ)めて運河を鑿(ウガ)つ。亀岡是が為、また耕田の過半を失う。村民大いに之を憂う。是に於いて、高橋一郎、雫石藤治、齋藤善右衛門、齋藤又吉胥(アイ)謀り、洲崎塩田を増墾し、以って之を済(スク)はんと欲す。然れども其の費無きに困(クル)しむ。会(タマタマ)浜市の人、齋藤廉吾、之を聞き四人を招いて曰く、「子等、塩田を益開し、村民を利するを欲すと聞く、其の事、甚だ好まし。余、且(シバラ)く薄息にて銀を放ち、子等の志を襄(タス)けん」と。四人感喜して事に従う。工、明治丁亥(テイガイ)三月に剏(ハジ)め、竣を戌子(ボシ)五月に告ぐ。日、大凡五百日、役夫、総て三万人、田十町有奇を得たり。闔郷(コウキョウ)其の利を被る。今茲己丑(キチュウ)八月、一郎等四人仙台に来て余の門を叩き、墾田の顛末を敍し、余の文を得て以って齋藤氏の惠を不朽にするを乞う。余、廉吾を識る有年、廉吾、平素自ら倹朴を奉ずること富豪に類せず。然れども済物興利の事に至っては乃能く此の如し。其の義洵(マコト)に嘉(ヨミ)す可き也。是に於いて辞せずして、文の系(ツナガ)りを、銘を以って曰く。

爰(ココ)に疆(サカイ)し爰に埋め  海の?(ホトリ)に於いて  塩田を益開すること  十町有奇

一郷永終  茲に福祉を享く  誰かそれ之を為さん  於戯(アア)齋氏

明治二十二年十月   木村 敏 撰   緒方 旭 書並びに篆額 明治二十四年建築

※明治辛巳(明治14=1881年) 丁亥(20=1887年) 戊子(21=1888年) 己丑(22=1889年)

野蒜築港ファンクラブ事務局 松川清子

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