貞山運河とはみどころアクセス魅力再発見コラム写真集リンク

今から三十年前、昭和五十二年に刊行された郷土史《閖上風土記》には、貞山運河のことが次のように記されている。

― 私たちが子どもの頃は、この貞山運河を“こげえ 船”と称する船が盛んに往来したもので、野菜や木材が満載されていたのを記憶している。また、原木の筏が長蛇の列になって蒲生(がもう)方面へ運ばれるのも見た。丸森から阿武隈川を下り、納屋(なや)の貞山堀口から北上するのだと聞かされていた。筏の上にムシロがけの小屋がしつらえてあり、鍋や釜が用意されていた。潮の干満を利用して流れに乗るため、幾日も日数を要したのであろう。潮待ちのため半日くらいも今の船だまりに碇泊していることもあった。―

風土記の筆者は、それが刊行された当時六十才位と思われるが、そこから類推すると今から凡そ八十年前の昭和初期には、このような川船が貞山運河を航行していたようである。人々の暮らしと共にあった貞山運河は、鉄道敷設(明治二十年頃)と同時にその役割りを終えたと言われているが、その後もこの地に於いては、まだまだ舟運のための大事な役割りを果たしていたことになる。また、貞山運河(木曳堀:こびきぼり)が仙台の城下町をつくるための木材や必要物資を運ぶために開削されたことは誰もが知るところであるが、四百年前にも通ったであろう原木の筏が、目的や姿かたちが変わったとはいえ、遥かな時を越えて昭和の初期にもまた同じ所を通っていたという現実を知った時、私たちはそこに大いなるロマンを感じずにはいられない。風土記はつづく。

― 貞山堀(ていざんぼり)は子どもたちにとって絶好の水泳場でもあった。開運橋が完成したのは昭和三年であるが、この橋の欄干から満潮時には飛び込みもできたのである。いま閖上では、わずかに船だまりとして利用されているに過ぎないし、他の地方でも交通の手段というよりは、貞山運河の西方に展開する水田地帯の排水の機能を果たしているだけのようである。最近、県と仙台市では、この運河をレクリエーションの場として公園化することになったという。両岸の松並木ともども文化財として残そうというのである。全長に亘り実施されるのかどうか明らかではないが、特に仙台市の蒲生では、仙台新港の開発で一部が埋没して袋小路のような状態になり、且つ汚濁が甚だしく環境衛生上の問題になってきたので、この部分の運河を埋め立て、その状況が判る形で公園化することになったというのである。―

 現在、仙台市宮城野区の蒲生地区には親水公園が、また若林区の井土(いど)地区には海岸公園が整備され多くの人で賑わっている。一方、岩沼市の貞山運河東方には海浜緑地公園が北と南に二ヶ所整備されている。一昨年、仙台観光コンベンション協会の助成を受け、名取市内の有志による「貞山運河ブルーツーリズム実行委員会」が実施した“川舟めぐり”では、岩沼市の海浜緑地南公園脇の五間堀川(木曳堀:南貞山運河)から船を出し、名取市閖上を流れる貞山堀(中貞山運河)を上って名取川に出、そこから仙台市若林区の新堀(しんぼり:北貞山運河)を通って井土浦をめぐるコースを設定、有料で参加した多くの乗客の好評を博した。物資輸送のための水上交通路としての役割りを終えた貞山運河は、「観光」という新たな使命を負っていま再び私たちの前にその雄姿を現しているように見える。さらに 風土記はつづく。

― 閖上の場合も、現在の悪臭ただよう汚濁状態は手を打てば改善される。早急に整備をはかり、“運河最古の木曳堀”として永久に残すべきであろう。忘れがちであるが、貞山堀は津波の緩衝地帯としても重要な役割りを果たしてきたのである。広浦の埋め立てで住宅が増え、いま閖上は貞山堀によって町を二分する形になった。町の中央を由緒ある貞山堀が淘々(とうとう)と流れる。「淘」という字は水の流れを表現する。なお且つわが町は、その昔「淘上」と書いていた。貞山堀を再び泳げる川、釣りのできる川に甦らせ、祖先の偉業をいつまでも讃えてゆきたい。これは閖上に生きるものの夢の現われである。その夢の広がりの中から、新しい閖上の歴史が生まれてくる。―

前述した貞山運河の川舟めぐりは、十年を越える歴史を持つ「貞山運河フェスティバル」(閖上川まつり)という地域イベントにその端を発している。

― 水と人間の歴史を静かな水面にたたえる貞山運河は、多くの先人たちによる偉大な事業であり、私たちはこの貴重な遺産を守り育てながら、それを次の世代に継承していかなければなりません。流域を越え、人と人、地域と地域を結びながら、まちづくりの基礎をつくり、地域の文化をも育んできた貞山運河をより良く理解し、これからの在り方を考えるきっかけとなるよう、この催しをみんなの力で発展させていきたいものです。―

ブルーツーリズム実行委員会が実施した“川舟めぐり”は、この催しの柱となっている“水紀行”のノウハウを活かしたもので、そこには地域の長老に代表されるまちの人々の知恵や技術が凝縮されている。温故知新の精神に則って行われるこの催しもまた、地域住民が実行委員会を組織してその先頭に立ち、それを行政や企業、団体が支えている。水上交通の手段としては勿論、地域の人々の暮らしと共に在ったこの運河の持つ歴史的、文化的価値を再認識し、それを後世に伝えることに「貞山運河フェスティバル」の今日的意義があり、その発展を多くの市民が望んでいる。

そして、貞山運河によるこれからの地域の発展に求められるものは、「観光産業」という新たな視点ではないだろうか。観光とは読んで字の如く“光を観る”、即ちその地域の“光るものを観出だす”ことであり、それは取りも直さず、地域の新しい価値の発見や創造につながるものであると思う。気づかずにいたり、埋もれていたりする運河周辺の諸々の価値あるものに光を当て、産業としての芽を見出す努力をしなければならない。そうして見出されたものたちは、地域に新たな経済的価値をも生み出してくれることだろう。

先日、岩沼市に住むある人が私のもとを訪ねて来た。「志をもった人たちの力=志民力で貞山運河と地域を発展させたい」と言う。「望むところ」と二つ返事で承諾した。早ければこの夏頃にも、いくつかの地域にまたがる新しい市民組織が立ち上がるかもしれない。

地域のみんなの力が結集して“新しい貞山運河”が生まれる時、《閖上風土記》を著した先輩や運河を築いた多くの先人たちは、こころからそれを喜んでくれるであろうか。

(名取ハマボウフウの会 大橋 記)

Copyright (C) 2008, The Association of Teizan Canal

inserted by FC2 system