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伊達政宗(1567-1636)は戦国末期の有名な武将で、仙台藩初代藩主として仙台に入城 (1591年)、城下町建設に着手しました。

築城に際しては、大量の木材が必要とされ、阿武隈川流域の丸森や角田から切り出されました。また仙台藩は現在の岩手県南部(水沢、大船渡)周辺まで広がっていたため、舟運によって米などの物資を輸送し仙台に集結させる必要がありましたが、波の高い外洋を航行することは当時の技術では危険でした。

このため仙台藩は運河の開削を積極的に進め、土木技術者の川村孫兵衛重吉(1564-1648)に工事を命じます。1597年から1601年にかけて木曳堀(きびきぼり、13.4km)が作られ、阿武隈川と名取川が連結されました。木曳堀の名前は、木材を筏にし、それを河岸から引いて運送したためについた名前だとされます。

1620年頃になると仙台の城下町はさらに大きくなり、石巻や松島湾に集まる米や物資を仙台にも運ばなければならなくなりました。そのため、1626年、御舟入堀(おふないりぼり、7km)という水路の開削に着手、1664年ころに完成し松島湾と仙台城下町が結ばれました。

明治に入ると、明治3(1870)〜明治8年にかけて仙台の商人らによって木曳堀と御舟入掘が連結されます(新堀、しんぼり、9.5km)。有料の水路としての開削を目論んだようですが実現には至らなかったようです。

明治以降の歴史については、別項で述べます。

それにしても、400年前の土木遺産がそのままに近い状態で21世紀まで残されたというのは大したものではありませんか。

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